地震発生 ~当日~

2004年(平成16年)10月23日(土)午後5時56分。夕食の準備中、それは突然やってきた。地面を突き上げるような大きな揺れが集落を襲った。揺あたりは暗くよく見えない中、各々家を飛び出した。

 地震発生後、2人1組でガスや灯油など火災の原因になる箇所の点検をし、二次災害を防ぎに動いたり、お年寄りや病人の安全の確保に動くなどしていた。当日は集落内の3か所に分かれて不安な夜を明かした。

避難所生活

 翌朝、若栃小学校(2005年廃校)に避難をし、避難所生活が始まった。その後、小学校の裏山が崩壊する恐れがあり、集落ごと分散避難することになった。若栃集落の住民は若栃の集会所へ移動した。

 小千谷市街までの道路は亀裂が走り、がけが崩れ車が走れない状態だったが、重機を持ち寄り自力で仮復旧をした。そのおかげで、小千谷市の災害対策本部まで毎日救援物資を取りに行くことができた。また、住民が避難所にいるため、村が無人になってしまうと地元消防団で集落内の巡回を行った。食事は畑から野菜を持ち寄り、毎食みんなで炊き出しを行った。

 人的被害がなかったこともあり、避難所での生活は和気あいあいとし楽しそうだった。

田んぼの被害

田んぼや農道、水路に多くの被害がでました

農地は約30㏊が直接・間接の被害を受けた。田、農道、水路等の被害額は3億4千万円に上る(国の認定災害のみの金額)。市道、県道、一般河川は含まれていない。地震の翌日から手分けをして田んぼの被害状況把握に努めた。山が崩れ、川が流れを変え、田んぼが原型をとどめていない。最初は、田んぼをあきらめていたが、困ったといっても誰も助けてくれない。自分たちでなんとかしなくては、と復旧をしていった。

わかとち未来会議

 地震があり、その翌年には若栃小学校の閉校と続いたことにより、村に元気が感じられなくなった。小学校の後利用のことも含め、震災後に元気がなくなった集落を活気づけようと、村の有志が5人ほど集まり活動を始めたのが「わかとち未来会議」設立の始まりである。

 外部から大学生や外部のコーディネータを招くなどして若栃の未来を住民らで話し合った。

 わかとち未来会議から農家民宿「おっこの木」、民泊(グリーンツーリズム)、しめ縄製造販売、加工品の製造販売、生産組合の設立といくつかのコミュニティービジネスが生まれた。

現在

 震災の復興も終わり、わかとち未来会議の活動も縮小されてはいるが、おっこの木やしめ縄製造、民泊受け入れは今も続いている。